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Banda Aceh 津波その後      中島 苑子

12、3年程前、当時の留学生はBanda AcehのSyiah kuala大学からが多く
津波があったときどうなったか大変心配しました
帰国すると皆忙しいのか 音信不通
2年ほど前ようやくSyuhadaさんからメールが届き
Ganiさん一家は全員亡くなったがAman さん一家は無事と知らせがありました
Aman さんとGaniさんとは、とりわけ深くつきあっていたので、
SyuhadaさんにAmanさんの住所を知らせてくださいとお願いしても
そのうち連絡する、、でらちがあきません 
ならば、Banda Acehへ私は行くのだ!Ganiさん一家の冥福をKaju村で祈りたい!
行くとなったら漸くAman さんと連絡がとれ
2月の終わりから3月始めBandah Aceh津波その後を見てきました
Acehはインドネシアで最もイスラム信仰の熱心なAceh人の居住地、
オランダとの独立戦争が長年続いた所、
中央政府から自治権を勝ち取ったところ等
聞いてはいましたが、その様な感じはなくここがジャワ島のある都市ですと、
言われればそうかなと思うくらいでした
Medanから Banda Acehの空港に到着し機内を見渡すと、あれれ!!
確か乗る前女性のジルバブ姿ほとんど無かったのに え~?いつの間に
(帰りジャカルタ行き機内は乗ってすぐジルバブはずす人あり)
折から選挙近しで町中ポスター林立 
Amanさんは”あっちもこっちも友達 誰に入れたら良いか困っちゃう”
津波その後 この都市は正に復興事業に湧いており
この建物はドイツ、これはアメリカ、これは日本から、これは、、、から、これも、、から
(いつも思うことですが、この国は建てるとなるとなんでも本当に大きいですね)
TVで何回となく流されたあの映像 世界に相当なインパクトを与えました
公共の建物は大きく新しく、私のような旅人にはどこが津波?でした
しかし復興事業とはいうものの、突貫工事では?の感じ
泊まったホテルは見た目は良いのですが、水回り排水が悪く、洗面、風呂は洪水
日本でもバブル真っ最中、職人さんが足りなく
手抜き工事で問題になった住宅が多々あり泣かされた人がいました
何やらそれと同じにならねば良いが、折角の復興資金が無駄にならぬようにと
ホテルのコンベンションホールでは各地から集まった(50名位)女性のセミナー開催 
Amanさんの話によると、Banda Acehでは5万人が亡くなり
ジャカルタより賃金が高いため、10万人が復興事業の為入ってきたそうです
私がBanda Acehを離れた一週間後 新しい空港がオープン
Acehらしく、まるでイスラム寺院を思わせる大きなもの
近いうちにモールショッピングが入るそうです

30メートル高さの津波が押し寄せた以前のウレレ港は跡形もなく
元の場所とは違う所に建設され(遠くから撮っても全体が入らない大きさ)
私が訪れた少し前にユドヨノ大統領ご一行様来訪し、大きな写真が掲げられていました
オランダ軍兵士墓地の隣に、これまた大きな津波博物館完成(中身?)
夕涼みがてら多くの市民で賑わっており、
近くの公園は、国内外からの義援金を記した船の形をしたモニュメントが完成
スマトラで最も美しいと言われているメスジット・ラヤは被害もなく
地面少し水が浸っただけとか これは神様のご加護の由
限られた日数と案内してくれるAmanさんの都合もあり、表面をさらっと見ただけです
さて、旅人私にとっての津波は、、、
まず一つはKaju村Gani さん Maiさん一家のお墓参り
何もかもが流されたかつての住宅跡、Amanさんが携帯で友達に何度も尋ね
行きつ戻りつ、ようやくたどり着きました
赤い屋根 黄色の壁の復興住宅が所々に建っているそこに
Ganiさん Maiさん一家の土台だけが残されていました
現ジャカルタ在の家族、かつて日本留学中 小1の男の子が突然死し、
その子どもの冥福を祈りたく、5~6年前ジャカルタを訪れた際、お墓参りをしました
お墓へ行く前に花屋さんに寄り花束を求めました
Titinさん(Amanさんの奥さん)に、前もってお参り用のお花をお願いしていたのですが、
彼女はそれらしきものを持っていません いいのかな~ 心中心配
ですが、Ganiさん宅跡地に着くと
Titinさんが袋からバナナの葉っぱに包まれた色とりどりの花びらを取り出し
”こうやって撒くのよ” ペットボトルに入っている水を ”お水もね!”と
そう、この光景父が亡くなった時、
宮司さんが小さく切った白い紙を空に向かって撒いた、、、同じです
復興住宅に住む近所の人の話では、Ganiさんのお姉さんが毎週お参りに来るそうです
穏やかだったGaniさん 大きな黒い瞳のMaiさん そして子ども達 
”安らかに眠ってください”
主人と私は敷地あちこちにはなびらを撒き、水を撒きました
Titinさんのご両親も亡くなりました
その跡地はタイル床の一部が残っており、
奥さんを津波で亡くしたTitinさんのお兄さんと、
ご主人を津波で亡くした奥さんが再婚し、Titinさんのご両親跡地に復興住宅を建て
住んでいます 土地の相続は津波があった時、Banda Acehに住んでいた人だけだそうで
ジャカルタに住んでいたTitinさんの長兄は権利はなく、Titinさんと次兄のみ相続可
日曜日はAmanさん一家、新しい奥さんの兄弟家族が集い、昼食を共にするそうです
Banda Acehを離れる日が丁度日曜日でしたので、一緒にごちそうになりました
復興事業に湧くBanda Acehと書きましたが、
津波で流された個人住宅のインフラは、まだまだで

Titinさんご両親宅跡地回りの下水溝は、今漸く掘って、コンクリートで固めつつ、、、でした
Banda Aceh市内共同墓地2カ所へも行きました
ウレレ港近くのは、本当に広大な公園になっており、
この公園の下に何万人の人が、眠っているんですね 言葉を失います
もう一カ所の方はTitinさんのご両親が眠っている墓地
Amanさんも Titinさんも”自分たちはこっちの墓地だと信じている”
そして、ここの墓地でも花びらを撒き、水を撒きました
日本で言う東屋が建っており、イスラム教では人が亡くなるとその人を偲んで
本を作るそうで、本が沢山置いてありました
Amanさんが”ここの墓地に沢山の人を埋葬した時の写真がパソコンに取り込んでありますが、見ますか?” つらくて見る気になれません
Amanさんの家のあたりでも、床上30㎝位水が入り、
亡くなった人が流れてきたそうです 聞けば聞くほど辛い話ばかりです
復興事業に湧くBanda Aceh市内、一見しただけでは津波の跡はまるで分かりません
しかし、人々の心の中には決して忘れることができない大きな大きなものがあると
思いました
インドネシアと言えば、バティック、イカット
Acehの美しい刺繍を皆さんはご存じでしょうか?
刺繍を生かした衣服 バック等 本当に素晴らしいものです
以前は手作業だったと思いますが、今はミシン刺繍がほとんど
今回Banda Acehを訪問するにあたり、ミシン刺繍でも良いから工房を訪ねたく思いましたが、結局は出来上がった品々のお店をのぞいただけ
Amanさん Syuhadaさん一家へのお土産 何が良いか散々探しましたが
今の日本 メイドインジャパンほとんどありません
米国在友人みやげもメイドイン米国ありません
これが、今の日本の現実よくよく思い知らされました
(10年ぶりに会うAmanさん Syuhadaさん
 頑張って探しメイドインジャパン渡しました
 インドネシア人にメイドインインドネシア土産面白くもおかしくもありません)
そしてBanda Acehのお店でTitinさんおすすめ、Aceh伝統の刺繍が入った布
日本に帰ってからよく見ると、えーーーっ!
メイドインイタリア な、な、なんでーーー
刺繍はインドネシア? 布と染がイタリア? まさか刺繍もイタリア?
そして女性のファッション 最近あのジルバブ、首に巻き付けるタイプが流行りで
日本で最近よく見かける、黒のスパッツに上はフアットした例の服
(口の悪い主人に言わせると、ももひき 妊婦服)
ナニナニ日本と同じスタイルで頭だけ首巻き付けジルバブ 
グローバルな世界をまざまざと感じたAceh訪問でした
 

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