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インドネシア通信 『インドネシア権力史』…の巻き    神谷 典明

 
8月21日、インドネシア憲法裁判所はプラボヲ候補が起こしておりました
選挙管理委員会の手による大統領選開票結果に対する異議申し立てを
却下する、という判決を下しました。
これをもちましてジョコウイドド氏(愛称ジョコウィ)が第7代インドネシア大統領に
就任します
庶民宰相の誕生です。
あとは10月20日の大統領任式を待つのみです。
これでインドネシアの2大事、①イスラム正月と②大統領選挙が無事終了しました。
 
インドネシアの歴史を何気なく見ておりますと日本の歴史に似た場面に出くわす
事が有ります。
 
(スディルマン将軍)
インドネシア独立戦争を戦った若きインドネシア国軍最高司令官です。
ジャカルタの目抜き通りにスディルマン通りとしてにその名を留め、最近銅像も
建ちました。
8月25日のNHKニュースで最後のジャピンドがお亡くなりになられたの報道が
ありました。
ジャピンドとは、ジャパン・インドネシアの略です。
敗戦当時ジャワ駐留軍の一部がインドネシアに居残り、独立運動を一緒に戦い、
名誉国籍をもらってインドネシアに住んでおられた方々の呼称です。
お亡くなりになられた小野さんもスディルマン将軍と会われたのでしょうか…
 
スディルマン将軍はインドネシア国民の間で大変人気が有ります。
日本人によく知られているスハルト大統領を凌ぎます。
ひょっとするとあのスカルノ大統領より人気が有るのかもしれません。
教師出身で国軍に身を投じ、独立戦争を戦い抜きました。
特にオランダ軍の反攻によりジョグジャカルタが占領された時、病気で伏して
居たのにも拘らずゲリラ戦に身を投じ、担架に担われて戦いを指揮し続けたそうです。
そしてようやく得た独立の一ヵ月後、ゲリラ戦の無理がたたって短い命を終えました。
享年35歳だったそうです。
 
不思議な事に東京の市ヶ谷の防衛省敷地内に、スディルマン将軍の銅像が
立っているそうです。その理由をネットで調べますと、
プルノモ国防大臣より防衛省に対し、日本の教育・訓練を受けた
 インドネシア独立時の国民的英雄であるスディルマン将軍の銅像が
 寄贈されました。防衛相会談に先立ち、銅像の徐幕式を行いましたが、
 これは、日インドネシア防衛協力・交流の進展を象徴するものです。
 プルノモ大臣の訪日およびスディルマン将軍の銅像寄贈を契機として、
 日本とインドネシアは、今後は、人的な交流にとどまらず,人道支援・
 災害救援や海賊対処などの分野において、より実際的な協力を
 積み重ねていくことが重要であり、両国防衛関係者は更なる努力を
 重ねていかなければなりません。
 インドネシア大使館付国防武官 海軍大佐 ディキ・アトリアナ』
と記されておりました。
インドネシアの独立戦争に多くの日本兵が関わり、一緒に戦った結果の独立
であるが故に、そのお礼として、独立戦争の象徴であるスディルマン将軍の
銅像を贈ってくれたでしょうか…
そうで有るならばジャピンド小野さん達も救われるというものです。
 
このスディルマン将軍は誰かに似ていると思いませんか?
担がれて戦争を指揮し、若くして亡くなった歴史上の有名人はだれでしょう?
 
 
(スハルト将軍)
インドネシア歴史の暗部は930事件と呼ばれるクーデター未遂事件です。
これは国軍右派と対立を深めていたインドネシア共産党が国軍左派急進派を使い
軍の弱体化を狙って仕掛けたクーデターです。
1965年9月30日早朝大統領親衛隊長ウントゥン中佐率いる左派が右派の
首魁である6将軍を襲って殺し、その死骸をルバン(穴)ブアヤ(鰐)と呼ばれる
地区に埋めて放送局などを占拠したクーデターですが、その日の夕方には
戦略予備軍司令官スハルト少将の手で鎮圧されてしまいました。
お粗末なクーデター未遂事件なのですが、結局これがスカルノ少将に鎮圧名目での
逆クーデターを成功させる結果をもたらし、結果としてスカルノ政権の簒奪をなさしめた
のです。
鎮圧に当たるスハルト少将の動きが余りにも素早かったので、スハルト少将は国
左派分子のクーデターを知って動かず、軍首脳6将軍を捨て殺しにしてまでタイミングを
はかっていたのでは、という疑問を抱かれております。
本能寺変後の秀吉大返しに似ていませんか?
勿論スハルト少将が秀吉でスカルノ大統領が光秀です。
光秀が本能寺の変を起こす事を秀吉が事前に知っていれば、大返しは簡単に行えます。
スハルト少将が930クーデター計画を事前に知っていて放置したとなればその速やかなる
鎮圧も理解出来ます。
歴史ではスカルノさんからスハルトさんへの政権移譲と称しておりますが、果たしてどこが
委譲なのでしょうか?
委譲ではなく剥奪なのではないでしょうか…。譲ったのではなく奪われたのです。
その後スカルノさんは失意のうちに亡くなるのですが、果たしてお亡くなりになられたものか
どうか…
歴史の闇は深いです。
 
この様に暗い部分を宿して生まれたスハルト政権が次に行ったのが共産党狩りです。
スカルノ与党勢力の柱であった共産党を壊滅させるのに国民の手を使ったのです。
共産党員と指さされた国民が同じ国民に殺されたのです。
西ジャワやバリ島、そして北スマトラ(メダン)等で特に酷い虐殺が起ったのだそうです
スハルト大統領はこの風潮を取り締まらず(ひょっとしたら煽って)多くの国民が国民の
手で殺されるのを放置したのです。
その中心は中国(共産党)と同じ血を有する華僑でした。
吊るされたりナイフで刺されたり、共産党であるかどうかではなく、共産党であると
指を差されるだけでよってたかって殺されたのだそうです。
原木時代に東カリマンタンのタラカン島で小職にアガティスの丸太を売ってくれた華人、
グイおじいさんは共産党狩りを逃れてジャワ島第2の都市であるスラバヤから地の果て
タラカン島まで逃げて来たのだそうです。
それはそれは怖かった,と当時を思い出して語ってくれた事が有りました。
犠牲者の数は30万人とも200万人とも言われており、未だに正確な数は判っていない
そうです。(但し、インドネシア政府の公式発表は8万7千人です。)
 
この様子は今春公開された映画、『アクト・オブ・キリング』に詳しく描かれているそうです。
この映画を作ったオッペンハイマー監督へ贈ったラトナ・サリ・デビ・スカルノ婦人の以下
コメントが事件の本質を匂わしております。
”夫スカルノ氏を失脚させ自身も亡命するきっかけとなった9・30事件を振り返ったデヴィ夫人、
 当時は宮殿に潜んでいたといい、『川の中に何分隠れていられるか、走ってどれくらいで
 庭を突っ切れるかなどを考えながら、毎晩ズボンをはいて寝ていた。
 護衛官もいつ裏切るか分からないし、味方なのかスパイなのかも分からない。
 人間って何も食べないで眠らなくてもこれだけ生きられるんだと知った』、と壮絶な体験を
 明かした。
 デヴィ夫人も、『虐殺が事実だと証明されてうれしく思う。監督の偉業には心から感謝。
 (故スカルノ元大統領には)やっと真実が明かされ、あなたの汚名をそそぐひとつのきっかけ
 になったと報告したい。真実は必ず勝つと信じていた』、と語った。
 
 
スハルト政権次代は毎年独立記念日の夜、930事件の映画をインドネシア国営放送
TVRIが深夜流しておりました。
6将軍を殺す実に気色悪い場面から始まり、若きスハルト少将がクーデターを鎮圧する
内容ですが、これはスハルトさんの国民に対する脅しでしょうか?
テレビで流すような内容の映画にはとても思えませんでした。
実に気持ち悪い映画です。それを国営放送が毎年流すのです。理解不能です。
この辺の事情を知るには、深田佑介著、『神鷲(ガルーダ)商人』、という小説が
参考になります。 
 
インドネシアと言えば日本の若者は明るいバリ島を思い浮かべるでしょう。
中年の方でしたら世界遺産ボロブドゥ-ルを想われるでしょうか…。
そんなインドネシアにも実に深く暗い過去の闇が有るのです。暗い!
インドネシア司法は共産党狩りで行った殺人は罪に問わないそうです。
 
最後に明るい兆しを一言!
初の庶民宰相、ジョコウィ大統領の誕生に伴い、もう一つの初が起こるのです。
ジョコウィ氏は現在もジャカルタ特別州知事です。残りの任期も有ります。
10月20日の大統領就任式を境にジャカルタ州知事は副知事のアホック氏が
昇格する事になります。
アホック氏はインドネシアでも珍しい華人の政治家です。
華人は暴動の的になったり虐殺されたりと、庶民の恨みを買う事が多いです。
この為、彼等は長らく、『経済は握るも政治には口出ししない』,と言う態度を
採ってきました。
彼はこの禁を破ったのです。
ジャカルタはインドネシア最大、世界でも有数の都市です。
そのトップに華人が就くのです。
今後が楽しみです。華人に政治手腕が有ることを見せ付けてもらいたいものです。
インドネシア国民も今までのように華人を苛めるのではなく、華人と融和してこそ
国が発展することを知ってもらいたいのです。
 
彼の手腕に期待します。