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【インドネシア通信 ::::: 無神教?の日本人  】


      
2004/10/4  岡崎にて
                         
神谷  典明

  インドネシアは2億弱のイスラム教徒を抱える世界最大のイスラム教国です。
 今年も10月14日から11月14日までの一ヶ月間、イスラム教徒最大の行事である断食行が行われます。
 インドネシアの住民票には宗教を記入する欄があります。
 履歴書にも求人票にも宗教を記入する欄があります。
 イスラム教徒、カトリック教徒、仏教徒、…etc。
 相手に宗教を聞くことは失礼に当たりません。
 我々異国人に対してももよく『宗教は?』と聞いて来ます。
 そのとき多くの日本人は『無神教』と答えます。
 彼らは『???』という気分になりましょう。
 神を持たない?…この意味を理解できないのです。
 神を持たない人間なんているのだろうか?
 彼らはそんな感じを抱くのでしょう。
 極端な言い方をすれば『神を持たないのは人間ではない、それは動物として分類されるべきだ』…と。
 これが彼らの理解なのです。
 ビジネスの世界でも無神教と名乗ればその人の信用に大きな傷が付くでしょう。
 神を持たないような人は人間としてあるべき品格を備えていないかもしれない。
 何をやりだすか判らないので注意せよ!!…と。

 彼らは多かれ少なかれ宗教に導かれて生きております。
 お互いに宗教を持っている人間同士の信頼感の中で生きております。
 同じイスラム教徒、同じキリスト教徒、同じ仏教徒…
 (時々異宗教間での信頼感が築けず殺し合いもしますが…)
 この中に入り込んできた無神教を標榜する日本人は彼らにとって大変奇異に写る事でしょう。
 ジハードを叫ぶイスラム教徒を日本人が理解し難いのと同じくらい、無神教の標榜する日本人は彼らにとって理解し難いでしょう。

 イスラム教徒は日々戒律で定められた宗教行為を素直に生活の中で実践しております。
 小さいころからコーランを習います。
 コーランはアラビア文字で書いてありますのでアラビア語も習います。
 コーランを音読します。
 コーランはアラビア語ですので意味がわからなくてもこれを丸暗記します。(勿論その意味もあとで勉強して覚えます)
 毎日決まった時間が来るとお祈りします。
 敬虔な人は毎日5回、決まった時刻にどのような仕事をしていようとも中座してお祈りをします。
 敬虔でない人も金曜日の昼にはお祈りに行きます。
 これを妨げることは何人たりとも出来ません。
 昔、日系の会社が作業時間中のお祈りをサボタージュと解釈して禁止しようとしたばかりに、ストを打たれて大騒動になったことがあります。
 商談中であってもお祈りをしたいと言われれば、
 『silahkan…どうぞ』と許し、終わるのを気長に待つのがインドネシアでの礼儀です。
 工場内にはイスラム寺院が会社の手で作ってあり、金曜日のお祈りを自由に出来るよう配慮してあります。
 ついでに中国系従業員の為に儒教仏教寺院が作ってある会社もあります。
 2流ホテルの部屋には天井や壁にお祈りの方向を示す矢印が張ってあります。
 これは正確に西を指し示しております。
 メッカの方向、つまりサウジアラビアより東の国では西向きに座ってお祈りを捧げるのです。
 (仏教徒の小生なぞはこの矢印と反対方向へ向いて毎朝の礼拝を捧げております。)
 敬虔なイスラム教徒が旅行をするときにはコンパスを持って歩き、訪れるその地その地での西を正確に測って頭をたれるそうです。

祭壇はにぎやか
祭壇はにぎやか
金曜日の礼拝
金曜日の礼拝
工場内の仏教・儒教寺院
工場内の仏教・儒教寺院
ホテル天井―西を指す矢印
ホテル天井―西を指す矢印
お祈りの時間
お祈りの時間
 インドネシアのテレビは毎日早朝と夕刻のお祈り時刻に、全ての番組を中断してコーランを流しま

す。
 コーランは丁度日本の御詠歌や浪花節のように節回しのきいた哀愁のある歌の様なものです。
 夕刻夕日が椰子の葉陰にかかるころ、遠くから聞こえてくるコーランは我々日本人に異国情緒を沸々と味あわさせてくれます。

 駐在員達の間では、『借家は昼間借りるな、乾季に借りるな』と云う語り継ぎがあります。
 その趣旨は、『乾季に借りた借家はどこが雨漏りするか判らない、故に家は雨季に借りるべし』
 そして…
 『昼間はイスラム寺院の位置が判らない。
 夕方お祈りの時間に下見に行けばイスラム寺院がすぐ近くにあるか、遠くにあるかが判る。
 近くにあったらその家は借家として借りるべきではない…』
 その理由は、毎早朝4時過ぎになると拡声器を使ってコーランを流しますので、うるさくて眠れないからです。
 まして断食月に入ると一日5回、夜中までコーランが拡声器のヴォリュームを一杯にして流され続けます。
 とても耐えられるものではありません。
 夕焼けの中遠くから聞こえてくれば情緒のあるコーランも、近くで拡声器を通して無理やり聞かされると拷問なのです。



 宗教が身近に染み付いた生活。
 何事も神に導かれた生活。
 かつては日本にもあった筈です。
 生きとし生けるもの全てに神を感じ、生活する場所全てに神を見出す。
 川の神、山ノ神、かまどの神、便所の神、野辺の花にも路傍の石にまでも神が宿る。
 八百万の神…
 かつての日本はどこにでも神が居られたのです。
 森羅万象に神宿り…
 宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』を見て思わずホッとするのは、その名残がまだ我々の心に仕舞われているからではないでしょうか…

 大いなる自然の摂理に身を委ねる。
 この快感をインドネシアの人たちは肌感覚で知っております。
 『神の御心のままに』…とかく日本人ビジネスマンに評判の悪いこの言葉も心地よさの表現なのかもしれません。
 (決して無責任をあらわす表現ではありません!!…?)
 我々日本人はこの快感を、どうして?いつから捨てようとしてしまったのでしょうか?
 無神教…無粋な言葉ですよね。
 異国人に対してどうしてこのような無粋な言葉を使うのでしょう?
 神道という言葉があるのに…

西方浄土
西方浄土