YOGYAKARTAでの一年

                          川口 巳貴子


2006年9月より約1年、ジョグジャカルタのUGM(ガジャマダ大学)で留学生活を経験しました。

ジョグジャカルタは中央ジャワに位置し、世界遺産のあるボロブドゥールや、プランバナン、

そして様々な大学が集まってる学生の街としても有名な地域です。

私が初めて住んだ寮もUNY(ジョグジャカルタ大学)の横にあり、

UNYの学生が通り沿いを和気藹々と話しながら大学に通っていたのをいつも見ていました。

ジャワ島は約80パーセントのイスラム教徒で占められており、

女性はジルバブ(髪を隠すスカーフ)と長袖を着用していて、

気温30度でも涼しげにしているのを不思議に思って眺めていました。

日本でこそ、25度位を超えるとTシャツや半袖を身にまとうのが自然ですが、

インドネシアではほとんどがイスラム教徒で占められている為、

いくら暑くても肌を見せないのが当たり前になっています。

外国人である私を含めた留学生がTシャツ姿で汗を流しながら

大学構内を歩き回ったり、食事をしたりしていても、

その横をジルバブを被った女学生が、ゆっくり歩いていく様子は面白いものでした                    

人数の多い女子寮に住んでいた、クラスメート(日本人)から教えてもらったのですが、

寮の中ではモスリムの女性もジルバブを取って生活しているとのこと。

ただ、友人の男性が寮を尋ねて来たり、

寮の外に出る時は必ずジルバブをつける様です。

私の住んでいた寮は3部屋のみの小さな寮で、元々は男性寮だった所を

UGMに近く、お湯が出るシャワーのカマール・マンディ

(水浴びをする場所とトイレが兼用になった小部屋)とキッチンがあったため、

インドネシア人の友人が寮長に話しをつけてくれ、1部屋空いてる所へ入りました。

こういう状況の為、

残念ながら大学に通うインドネシア人女学生の生活がどんなものかを

あまり知ることはできなかったのですが、

その代わりに、女子寮に住んでる友人の所へよく遊びに行きました。

毎年1ヶ月近く断食月があるのですが、断食中は日が出ている時に、

食事はもちろん、水を飲む事、洗顔等、心地良いことはできない事になっており、

毎日5回あるお祈りの内、一番早い朝のお祈りの前までに朝食を取る為に、

早朝3時半位からモスリムの人は起き出し、食事の準備を始めるのです。

私はイスラム教徒ではないため、

断食月も起床時間は普段と変わらず6時半頃の予定でしたが、

寮内ではお手伝いさんが朝食の準備の為早く起床し、ゴトゴト、バタバタするので、

結局私も同じような時間に目が覚めてしまい、眠い日々が続いた1ヶ月間でした。

この時も、クラスメートの女性の寮では朝のアザーン(朝のお祈り)前に

イスラム教徒である寮友が一斉に起き、

下の階からは大音量の音楽が流れてくるわ、大きな声で朝の挨拶を交わし始めるわで、

やはり寝不足の1ヶ月が続いたそうです。

大学構内は断食月になると昼は一部の食堂しか開いてない為、

かなり混雑する上に品切れがあり

イスラム教以外の学生は昼食を探すのに苦労しました。

断食中、昼に開いている食堂も、モスリムの食事を取れない人を配慮して

カーテンが布かれていたり、営業中にも拘わらず垂れ幕をして、

店内で食事をしてる人の姿が外に見えないようになっていました。

また、夕方のマグリブ(夕方のお祈りで、その後夕食を取ることができる)少し前からは、

今度は夕食を探す人がワンサとあちこちに繰り出し、

ワルン(惣菜を売る小さなお店)には長い行列ができ、

夕食は夕食で探すのが一苦労でした。

普段は穏やかなインドネシア人も、断食中は夕食を買うため殺気立っていて、

我先にと背中を押したり、人の足を踏んでも気にしない様子なのに

少しビックリさせられました。

このような状態が1月続いた後、イドゥルフィットリィという断食明けのお祭りがあり、

大学も休みに入ります。

日本でいう里帰りがあり、学生の街であるジョグジャカルタも大半の学生が帰省するため、

普段は交通量の多い賑やかな通りも数台の車やバイクが通り過ぎるだけとなり、

一時のみ静かな街となりました。

大学での講義も無事終了し、ジョグジャカルタでの生活も残す所2ヶ月に入った時、

気分転換も兼ねマリオボロ(ジョグジャカルタの昔からの繁華街)近くの寮に引越しをしました。

この寮は大学からは離れていますが、

昔からの繁華街であるマリオボロには歩いて15分程の距離で出られます。

また、その寮は下町にあったため、

ジョグジャカルタの普通の人々の暮らしを覗く事ができました。

たらいで洗濯をしているお母さん、

日がな一日ワルンでコピ(インドネシアの粉コーヒー)を飲んでるお父さん、

裸足で声をあげアチコチ走り回ってる子供達。

ゆったりしたインドネシアののどかな光景です。

物売りも多く、朝から野菜や魚、ドーナツ、ブブール(おかゆ)、ソトアヤム(チキンスープ)、

ルジャック(果物をカットしスパイスを混ぜ合わせたもの)等、

様々な呼び声と共に、細い小さな道を物売りの人たちが歩いてる姿を

部屋から眺めているだけでも楽しいものでした。

天気の良い日には寮の2階の部屋からムラピ山が望め、

その美しい姿を見ていると、

遥々日本を離れジョグジャカルタで暮らしている事を改めて実感、

心迫るものを感じました。

長年の夢だったインドネシア留学の希望が叶い、ジョグジャカルタに1年住みましたが、

旅行と違って生活というレベルで暮らすことができ思い出深い経験となりました。

日本の良さとインドネシアの良さの両方がわかり、これは何物にも変えがたい経験です。

現在、既に日本に帰国しましたが、

インドネシアとの繋がりはこれからも続けて行きたいと思っています。

ガルーダインドネシアも来年4月から週3便、中部国際空港から再度就航するという情報があり、次回はいつジョグジャカルタへ行けるだろうかと今から考えています。

そして、1人でも多くの人がインドネシアを訪れ、

インドネシアに興味を持って頂けたらと希望しています。

美しく雄大なムラピ山、世界遺産のボロブドゥール、仏教遺跡のプランバナン、

そして

マリオボロにある1758年から続いているブリンハルジョ市場等、

見所沢山のジョグジャカルタに、皆さんも是非一度足を運んでみては如何でしょうか。

ガジャマダ大学構内で
ガジャマダ大学構内で
ガジャマダ大学農学部で
ガジャマダ大学農学部で

YOGYAKRTAでの一年 :::: ボランティア 

                            川口 巳貴子  

 

2006年の527日、ジャワ島のジョグジャカルタに大地震が発生し、 

5000人以上もの人々が亡くなったことは、既にご存知の方が大勢だと思います。     

私は2006年9月からジョグジャカルタに入りましたが、中心部の街中は大きな被害は見られなかったものの、 一番被害の大きかったバントゥルを訪れた際は、崩壊した家々が多く見られ、心を締め付けられました。

  

インドネシアに渡航する直前の8月に、 日本人インドネシア交流フォーラム(フォルマシ・ジェイ)とデンソーのボランティアグループ (ハートフルクラブ)のジャワ島地震被害のチャリティコンサートが刈谷のデンソースクエアにて開催され、私もそのコンサートに参加させていただきました。  

そのコンサートに、ジョグジャカルタから伝統舞踊家のディディ・ニニ・トウォさんが来日し、 ジョグジャカルタ大地震の被害状況を写したパネルを一枚一枚説明して下さり、 当日の来場者の方々も深く聞き入っていた姿を目にしました。 

新聞やニュースでも、ジョグジャカルタの大地震の模様が報道されていましたが、 

実際に被害にあった人々の暮らしぶり、家が瓦礫の山になってしまった光景、 

家はかろうじて立っているものの、 壁には蜘蛛の巣のような亀裂がびっしり入った家で暮らしている家族、家を建て直すための支給物資を待ってる人々のパネルはどれも胸に訴えかけるものがあり、私がジョグジャカルタに留学した際には、必ずその場所を訪れようと心に決めていました。 

  

私はUGM(ガジャマダ大学:ジョグジャカルタ)の 

外国人専用のインドネシア語専門コースに通っていたのですが、  

UGMには企業から派遣されてきた社会人、大使館関係の人や交換留学生、  

そして私のような個人留学生など10名以上の日本人がいました。 

 

ある話しから、UGMの日本人の留学生達が 京都大学のアジア研究所の防災のボランティアに参加することになり、バントゥルのゲシカンに足を運ぶようになったのです。  

その内容は、地震国から来た日本人が現地の人たちを支援できることは何かないかと考え、 大きな自然災害等の際、現地の人々が情報交換できる場所、 常に人々が出入りできる自由な場所、 現地の人同士が助け合う場所を現地の人と日本人が協力し、一緒に作ろうというもので、 京都大学でジョグジャカルタ震災の時に集まった募金を、 

ジョグジャカルタの震災の起こった現地で有効に使おうというプログラムでした。 

 

日本は昔から地震国であり、建物も耐震設備を整えることが条件になっていますが、 

インドネシアではレンガを組み立てただけの家や、トタンの屋根で暮らす人々がほとんどで、 耐震設備が全くと言っていいほどなされていないのが現状です。  

そういう家屋なので、地震が発生した際には、被害も大きいものとなるわけです。 

残念ながら、そういった大きな自然災害を経験した人々の心のケアまでは、 

今のインドネシアではまだあまり問題にされていません。  

今でこそ日本では、PTSDや「癒し」の説明がいらないと思いますが、 

現地のインドネシアでは、それらの言葉を説明するにも難しく、 

それなら地震でうけた心の傷のケアのために、インドネシア人が楽しんで参加できるよう、皆の集まる場所に花を植え、特に家にこもりがちな女性を中心に、 

憩いの場所、共同作業ができる場所を作り、

自然災害時に皆が自然に集まれる場所を作って行こうと考えたわけです。 

 

2007年の4月29日にゲシカンで現地の女性と子供達を中心に説明会を開いた際、 

140名程の地域の女性と子供達が出席してくれました。これからの取り組みについて、パネルを使用したり小さな劇を開いて、共に活動していこうと説明したのです。 

まずは現地の場所に植える植物は何にするか。 

これについては、この催しの前に、ゴデアンのカトリックのシスターが開いている農園に行き、 ロセラ(Rosella)が簡単に育てられ、実を使いシロップやジャムもできるというシスターからの提案をもとに、実際に私たちが実習し、 

これならゲシカンの人も興味がもてるのではと、ロセラを選びました。

 5月13日にはゴデアンでの農園実習を企画し、引き続き大勢のゲシカンの女性たちが参加し、ロセラを育てる興味が沸いているのがわかりました。 

 私自身もこのプログラムに微力ながら参加し、様々なことが経験できました。 

私たち日本人は現地の人たちとの会話には、インドネシア語を使っていたのですが、 

中にはこちらが話し掛けても一向に会話がなりたたないこともあり、首をかしげていると、年配の方たちの中にはインドネシア語を理解できない人もいるとのことで、 

片言のジャワ語で漸く意思の疎通を図れたこともありました。

  

また、女性の立場が低いことが一因していて、 

会の催しの支払いなど金銭に関わることは女性スタッフがするのでなく、 

あくまでも男性が男性にという形がとられることがあったり、 

村では独身の女性が男性に話し掛けることは、あまり好ましいことではなく、 

ゲシカンに入る際も、女性スタッフは皆、日本人の恋人がいる、 

もしくは結婚相手が既にいるという風にした方がいいとも言われました。  

 現地の一人の女性からは、村では女性も家にいる人が多く、 

外に出て皆と共同作業ができる場所ができるのは、とても素晴らしいという話しも聞きました。

 インドネシアの村では、まだまだ女性が家に縛られている状態であるということ。 

私自身が女性なので、このプログラムの活動を通して、 

改めてインドネシアの女性の地位についても考えさせられました。  

 

トラブルも多々ありましたが、今後も、このプログラムに現地の人たちが積極的に参加し、 最終的には現地の人たち自身が中心になって、 この土地を活用してくれたらと日本人ボランティアは思っています。 日本人ボランティアは掛け橋にすぎず、メインはゲシカンの人たちであること。このジョグジャカルタのバントゥルのゲシカンは、

次回インドネシア渡航の際、最も私が訪れたい一つです。

YogyakartaのBatik工房
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Gadjah Mada大学農学
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