Sayang~インドネシア心の旅~   山岸庸子

 

私が初めてインドネシアと関わりを持ったのは、日本語のボランティア活動をしていた時です。名古屋市の東別院会館で、週に一度日本語教室に通い、アシスタントとして在日外国人の方たちに日本語を教えていました。そこには、海外から来日した社会人、学生、子供たちとの触れ合いがあり、日々の仕事と家との往復という単調な生活にちょっとした楽しみを与えてくれていました。

 

ある日、そこへインドネシアからの研修生達が団体でやって来ました。それがインドネシア人とのほぼ初めての接触だったかもしれません。「何故、この国の人たちはこんなに大勢で行動するんだろう?」というのが、私の第一印象でした。言っていることは良く分からないけれど、ずっとニコニコしている彼らを見て、なんだかとても楽しく、何故か懐かしさを感じました。その後、色々な行事に誘われて一緒に過ごしたり、言葉を教えたり歌を教えてもらったりしながら、自然にインドネシアの仲間が増えていきました。彼らは遠い日本で慣れない習慣の中、内部では様々な問題を抱えている人もいました。少しでも助けになればと思い、出来る範囲で、時にはそれ以上に自分を犠牲にして相談に乗っていた時もありました。時間を無駄にしたと後悔する事も度々ありましたが、でもそのお陰か、彼らが考えている事がよく分かるようになって来て、頼られるようになって来ました。

 

その相談内容は本当に様々で、インドネシアにいる家族の事、日本での仕事の事、恋人の事、友人関係の事と多岐に渡りました。日本が段々と人との直接的な関係性が薄らいでいく中、人と人との関係性が大変濃いインドネシアの人々にとって、人に関する問題は日常茶飯事な様でした。私が接触した研修生は数でこそ、そこまで多くはありませんでしたが、中でもとても重大な事を語って来た研修生がいました。その彼は、自身が望んで日本に来たはずなのに、日本の事があまり好きでないようでした。私は日本の事が大好きなので、どうしてだろうと放ってはおけなくなりました。彼と接触する中で、お祖父さんや周りの方々から戦争の事を聞き、本当は日本人に対してあまり良くないイメージを持っているという事が分かりました。それを聞いた直後、私は彼らに会いづらいと思う事もありましたが、そういう話をした後でも、会うと彼はニコニコとしていました。

 

彼らとの会話の中で、インドネシアでは、海外から輸入されているフルーツが想像もできない位の大きさで栽培されているというのを時々聞かされていました。「手の先から肘の辺りまでの大きさのマンゴーって、どんな味がするんだろう?」「片手ではこぼれてしまう程の大きさのアボカドって??」そんな単純な好奇心から、それを教えてくれた彼の帰国後に、単独で行ってみることにしました。

 

そこは、2004年に大きな津波のあったスマトラ島のアチェ州の中央部のガヨと呼ばれる地域でした。シンガポールまで7時間、乗り換えて1時間でメダンに到着し、その後国内線でバンダアチェに移動、その後車で約8時間という気の遠くなる旅程でした。メダンに到着した途端、とても居心地の悪い怖さという感覚が私を襲いました。数人の現地人が集まってきて、勝手に荷物を運ぼうとしたり、値段交渉をし始めたのです。振り払って行こうとする私を執拗に追いかけてくる売人たち。「メダンのお土産はアンボンだよ!友達の家に行くなら買って行きなよ!」そんな言葉を無視しきれず、大きなお菓子の箱をふた箱、持って運ぶことになりました。国内線航空券をその場で交渉して買い、やっとの思いでバンダアチェへ飛び、空港で迎えを待っていると、またもや1人の若者が近づいて、話しかけて来ました。手を引っ張られてどこかへ連れて行かれそうになりました。「友達が必ず迎えに来るから。」と言うと、「こんなに待っているんだから来る訳がない。あと5分待ったら行こう。」などという会話を交わしながら待った、ほんの10分がとても長く感じられました。

 

その後、すぐ見慣れた顔の彼とお兄さんが迎えに来てくれ、体の力が抜けるほどホッとしたのを今でも昨日のように覚えています。それから彼の家族と過ごす事になりますが、8人兄弟の彼の家族は賑やかで、子供達も合わせると大変な人数になります。インドネシア語が全くできない私にとって、来日経験のあるお兄さんが頼りの綱でした。その時に知っていた私のインドネシア語は、たったの3語でした。それ以降その土地は、私の第二の故郷となるのですが

 

彼の家族に連れられて、私は第二次世界大戦でガヨにやって来た日本人兵士の血を引く方と会いました。彼は、現地の人達からPak Jepang(日本おじさん)と呼ばれていました。彼の父である日本人兵士は、戦後彼を日本に呼び寄せるために、再び現地を訪れたそうですが、その時彼はまだ幼かったために、お父さんに連いて行く事より、現地でお母さんとの生活を選んだそうです。今になって、お父さんの情報を知りたくなり、私に手掛かりである品物を渡しました。そこには、お父さんが依頼した旅行会社の名前が書いてある紙があったので、その会社を探してみましたが、残念ながら、そこはもう既に存在しない場所で最終的に手助けしてあげる事はできませんでした。

 

Pak jepangと記念撮影 
Pak jepangと記念撮影 

 

3度目の帰省の時(2011年末)に、友人から地元で取れるとても珍しいコーヒーについて聞かされました。とても希少な物だから日本で是非紹介して欲しい、と帰国直前に頼まれました。以前に、仕事で貿易業務を一通り経験していた事もあり、輸入さえできればなんとかなるとごく単純に思い、「できる範囲でやってみるね。」という約束だけして帰国しました。帰国後に、インターネット等で資料を調べてみると、それがコピルワックという大変希少なコーヒーである事が分かりました。

 

野生のルワック(ジャコウネコ)がコーヒーの実を食べて、消化されずに自然に排出された物をプタニと呼ばれるコーヒー農家が山で探し出し、集めた物を丁寧に洗浄、乾燥、脱穀し、再度洗浄と乾燥を繰り返すという根気のいる作業を全て手作業で行うという代物でした。そして、それはインドネシアが発祥であり、上質のコーヒー豆が採れるガヨの地区の特産品でもありました。

 

それから約一年程、私はずっと取り付かれたかのように、ルワックの事やコーヒーの事を調べていました。依頼はして来たものの、貿易に関して素人の友人のために書類を作ったり、出来るだけ経費を掛けないよう、業者などには頼まず自分で通関をしたり、食品であるために必要な書類の提出や訂正のために、何度も検疫に通ったりしながら、何とか通関をし、現物を日本で販売できる状態になりました。そこまでもかなり時間を要しましたが、もっと大変だったのは、経験のない営業活動で、飛び込みでその希少なコピルワックを扱ってくれる喫茶店などを探したり、コーヒー業界を知るために展示会に参加してみたり、借りた本を読みあさったり、セミナーに参加したりと様々な事をしました。去年のインドネシアフェスティバルでは、他の地域のコピルワックではありましたが、試飲で提供したり、今年はガヨ地区のスペシャルティコーヒーと言われるコーヒー豆の提供をさせて頂きました。同じように、コーヒー業界の方で、以前よりコピルワックに興味を持たれていて、現地に行って農園で働いてみたいという方がおり、今年の8月のお盆の時期が丁度インドネシアでルバランと重なる事もあり、一緒にアチェヘ行く予定を立てていました。しかし、その前の月の72日にマグニチュード6.1の地震が起き、同行者の方との渡航はやむなく中止となりました。

 

私たち家族は、文化協会から絵本の贈呈を依頼されていた事、そして家族の安否確認と農園の状況を確かめるために、予定通り帰省する事にしました。全二週間程の日程でしたが、最初の一週間はまだ断食中という事もあり、家でのんびりと過ごし、昼過ぎに市場で買い出しをするという生活を繰り返していました。断食が明けた次の一週間は、農家やコーヒー会社や行政事務所へ行ったりして、コーヒーの仕事を出来るだけこなし、その合間に、地震の被害のあったさとうきび農家があるブランマンチュンという村を訪れました。

2013年7月の地震被災後のブランマンチュン村
2013年7月の地震被災後のブランマンチュン村

 現地のJICAにあたるPMIという団体のテントが張られていたりと、活動はされている様でしたが、ルバラン後という事もあり、仕事を休憩していたらしく、人もほとんどおらず、話を聞く事もできませんでした。手渡しするはずの絵本も、肝心のブランマンチュンの幼稚園がまだ始まっていないという事で、帰国2日前の朝に、タケンゴン市街の保育園に贈呈して来ました。先生方は大変喜んで下さり、短い期間でも、被災地へ渡航した甲斐があったと感じました。

 

祖国を代表して日本の技術を習得しに来る研修生との交流は、今でも自分なりに続けており生活の一部となっています。最近では、文化協会の行事に参加させて頂く事で、研修生だけではなく、留学生やその他のインドネシア人の方たちと接する事も多々あります。そうした小さな交流が、少しでも国や文化の相互理解の助けになる事を期待しています。(完)