Peue haba? (おげんきですか?)   ・・・アチェの思い出などお伝えします   

■結婚披露宴~スマトラ島アチェ州               Angge&Masami

 

前回タイトルでは結婚式でしたが、その一月後に披露宴を行うことになりました。

事情は色々あるのですが、一旦日本に帰国した花嫁は準備を整え、母と祖母を伴い

再度アチェを訪れました。

当時日本は真冬でしたから夏物の服を引っ張り出してきての身支度をはじめました。

三人分の荷造りとはいえ、個人で使用するものはわずか。大型のスーツケース2つには

披露宴で着る着物や来客に配るための日本土産をいっぱい詰め込んでの出発となりました。               

前回はバリ島経由で遠回りしましたが、ほぼ直線距離で行けるシンガポール経由にしたことで、アチェがすこし近くなったようでした。

やはりスマトラ島はインドネシアの最西に位置し、シンガポールやマレイシアに近いのです。

シンガポールで一泊した私たちは翌朝メダンへ。

メダンでもホテルに一泊することにして、避暑地で有名なブラスタギへ観光に行きました。

車で高地へ上っていくと気温は涼しく、観光地らしく整った土地にレストランや市場が

ありました。市場ではブラスタギ特産の果物や花木がたくさん並んで、

母や祖母はランブータンなどはじめて見る南国フルーツの試食を堪能していました。

旦那様と私は観光用の乗馬に乗ることに。笑顔のガイドが綱を引いてくれるのですが、

観光用とあなどっていたらスピードがどんどん速くなり、私は手綱を強く握り、馬にしがみつく思いでした。ここでケガをするわけにはいきませんでしたから。


メダンから飛行機なら30分でアチェのロクスマウェに到着します。

6時間車での移動は母たちには辛いであろうと考えたのですが、私にとっても楽な道のりに

なりました。しかし実はこの飛行機、「モービルオイル社用の小さな飛行機で私たちのために

今日特別に飛ばしてもらうのだ」と聞かされていた私はおんぼろのプロベラ小型機ではないかと心配していたのですが、普通の国内線飛行機で20人くらいの乗客も居たので、またインドネシア人の冗談だったかと拍子抜けしました。

ロクスマウェ空港というより飛行場には義妹たちが機体のすぐそばまで迎えに来てくれていました。車でしばらく、実家に着くと互いにインドネシア語と日本語ですが、両家のお決まりの挨拶をすませて、みやげ物を広げました。みやげ物に混じって出てきたキモノらしきものを義母はどう思ったのでしょうか。実はこのキモノとは懇願されていた新郎新婦のお色直し用の着物のほかに数枚の浴衣(ゆかた)を持っていったのでしたが、

「着物」と「浴衣」の区別は説明してみたもののどちらもキモノとして認識されているようでした。

熱帯の国で着物を着るとなると暑いだろうと誰もが想像することでしょう。

日本で私の母が振袖を単衣(ひとえ)に仕立て直してくれ、旦那様の羽織袴にもちょっと細工をしました。着物でなく浴衣というのも同じ配慮からでした。さて万全の対策は功を奏したでしょうか?

当日は南国特有の青空が広がりとても気持ちのよい日で、結婚式同様に実家が会場となりました。花嫁は実家から少し離れた親戚の家を自宅に見立てて、そこからの嫁入りとなります。

車で数分移動し、新郎の待つ実家の手前で車を降りると黄色の傘をさしてもらい、たくさんの視線があつまる中そろりそろりとお披露目です。

照りつける日差しがまぶしいのと気恥ずかしさとで伏せ目がちに歩きました。

実家の前で止まると目の前にはかわいらしい少女たちが私たちのために歓迎の踊りを披露してくれるではありませんか!異国の雰囲気を漂わせるアチェのメロディに合わせて踊るかわいらしい踊り子たちを見て私は感激の涙をぬぐいました。いつまでも忘れられません。


玄関で新郎に迎えられ、中に進むと応接間はきらびやかに飾り付けられ、中央には前日からご近所の協力で作られた数多くの料理が見事に並べられていました。室内は親族や女性陣のためで、入りきれない来場者や男性陣は屋外に並べられたイスに座るなどしてビュッフェスタイルの食事を取ります。インドネシアでは知らない人も来ますから、実数はわかりませんが、村中街中の人々が集まったそうです。私たち新郎新婦は終始ひな壇でお祝いに来てくれる方々と挨拶を交わしていたので、屋外の様子はあまり見ていないのですが、来場者は1000人とも2000人とも言われていました。


部屋は冷房を効かせ、ひな壇の脇には扇風機を置いたものの旦那様は着慣れないこともあり汗だくでした。私も涼しい顔をするのに精一杯だったようです。

後に写真を見るまで旦那様の胸元がはだけていたのに気づきませんでした。

実際の着心地はわかりませんが、意外にも親族ご夫人たちは母にはじめて着せられた浴衣にも

装飾品をうまく組み合わせるなど着こなしていました。

一般的に出席する親族・友人グループが制服やユニフォームのように衣装(通常はクバヤ)の色を統一して仕立て着用することがあります。一目でグループだとわかるのですが、知らずして日本から用意していった浴衣が正装となったのです。面白いものです。


お色直しは着物を脱いでアチェの民族衣装に着替えました。

来客の関心はキモノにあったようですが、私はアチェの民族衣装に関心を抱きました。

男性用は学ランのようなスタンドカラーの上着にズボンで、帽子をかぶり腰にはレンチョン(アチェの剣)を携えます。驚いたのは私の着た女性用もズボン式で、布地は意外にもベロア素材なのです。形はともあれスカート式だとばかり思い込んでいましたし、ベロアは日本で冬服のイメージがあります。この地は暑いのか寒いのか?不思議な感じでした。そんな事を考えながら髪飾りにつけたメラティの香りが顔のまわりに充満してとても気持ちよかったことも思い出されます。指先が赤いのはマニキュアではなく、前日に染料で描いてもらいました。

中近東の花嫁がするヘナと同じようなものです。ただヘナとは違うのかなと思うのは、赤みが強く一ケ月ほどは消えずに残っていました。新婚である証しでした。

 

長時間にわたって大勢の招待客と挨拶をしてずいぶん疲れましたが、その夜家族でご祝儀箱の中を開けてみると、祝儀袋などなく普通の封筒にしわしわの紙幣が入っていたり、明らかに空のまま入れられた封筒がいくつもでてきました。本当にきもちだけなのです。家族みんなで「日本ではありえないでしょうね」と笑い、疲れた体もほぐれるひとときでした。

結婚など考えていなかった頃の私は、名古屋式の派手な結婚式など絶対にやりたくない、質素でいい、と言っていました。それなのにこれほど盛大でにぎやかな結婚披露宴をするなどとは周囲も私自身も驚いたのでした。 

■津波被災者救援 故郷に向かう② ~スマトラ島アチェ州

                                   Angge&Masami

 連載2回目は結婚披露宴を掲載予定していましたが
 アチェ津波災害救援を発信いたします。
 2004年12月26日朝アチェで地震があったことを知り
 すぐにアチェ・ロクスマウェの実家に電話をしましたが
 食器やガラスが割れたが浸水もなく 家族に被害はないことが確認できました。
 このとき一安心だと思われましたが その後何度も電話するうちに
 アチェ州の被害が甚大であることがメディアからも伝わり始めました。
 アチェ州の度重なる不運に私たちは深い悲しみの中にありましたが
 一刻も早く故郷の救援に向かいたい一心で有志と共に義援金を募ってきました。
 

 私たち親族にも行方不明者がでています。
 実家近くの親類は子供3人が行方不明になりいまだ見つからず。
 バンダアチェに住む叔父家族は一家7人が行方不明になりました。
 数日前に7人のうち一人が被災地で見つかり
 外傷や骨折があったものの病院で手当を受けた後
 スラバヤの叔父に引き取られることになりました。
 こうした被害者がどれだけいることか また避難生活をしている無数の被災者のことや
 変わり果てた故郷を思うと涙が止まらなくなります。
 2005年が明け 数日の間に集まった義援金を携えて

 1月5日主人は名古屋空港を発ちました。
 翌6日メダンに到着 父親らと合流し救援物資を4トントラックに満載し
 陸路運ばれる 米 飲料水 ビスケット 薬など 
 これらの物資がどれだけの被災者に配給できるか心配でしたが、
 ロクスマウエ市到着から数々の避難所へ足を運び 物資配給は順調に行えたようです。
 持参した義援金も底をつき予定の配給は完了しましたが
 ある避難所では被災以来はじめてまともな援助が届いたと感謝されたそうです。
 この方たちは2週間もの間どんな思いで過ごしてこられたことでしょうか。
 援助の行き届かさなや物資を売りさばく人物がいることなど
 主人は怒りを隠せない様子で日本へ電話をしてきたこともありました。
 悲痛な思いの中被災者に直接届ける援助を続けようと現地での資金繰りもしました。
 ロクスマウェの住民有志20名程は予防接種をして 甚大な被災地ムラボ救援に、、、。
 主人もこれに同行したい意向でしたが 日本での生活もあり 志半ばの感で帰国。
 今後は直接配給に加えて
 こうした現地ボランティアへの支援をもしていきたいと思います。
 困窮するアチェ被災者のために引き続きご支援をお願いします。 

■津波被災者救援 故郷に向かう ~スマトラ島アチェ州

                              Angge&Masami

 連載2回目は結婚披露宴を掲載予定でいましたが、アチェ津波災害により緊急ニュースを発信いたします。(2005年1月6日)

年末26日朝アチェで地震があったことを知り、すぐにアチェ州ロクスマウェ市にある実家に電話をしましたが、食器やガラスが割れたが浸水もなく、家族に被害はないことが確認できました。このとき一安心だと思われましたが、その後何度も電話をするうちにアチェ州の被害が甚大であることがメディアからも伝わり始めました。
度重なるアチェの不運に私たちは深い悲しみの中にありましたが、一刻も早く故郷の救援に向かいたい一心で有志と共に義援金を募ってきました。
 中日新聞12/31記事 
 http://www.chunichi.co.jp/00/ach/20041231/lcl_____ach_____001.shtml

私たち親族にも行方不明者がでています。実家近くの親類は子供3人が行方不明になりいまだ見つからず、バンダアチェに住む叔父家族は一家7人が行方不明になりました。数日前に7人のうち一人が被災地で見つかり、外傷や骨折があったものの病院で手当てを受けたあとスラバヤの叔父に引き取られることになりました。こうした被害者がどれだけいることか、また避難生活をしている無数の被災者のことや変わり果てた故郷を思うと涙が止まらなくなります。

年が明け、数日間に集まった義援金を持って5日主人は名古屋空港を発ちました。翌6日メダンに到着、父親らと合流し、救援物資を購入して4tトラックに満載したとのことです。米、飲料水、ビスケット、薬などですが砂糖は品薄だったようです。明日陸路運ばれるこの物資がどれだけの被災者に配給できるかが現時点では心配されますが、分かり次第またご報告させていただきます。
また私たちの活動は今後もアチェ人有志で引き続き継続するものであるため、長期にわたって義援金のご協力をお願いしています。私たちにできることは小さなことですが、必ずアチェ被災者の支援となることをお約束できます。甚大な被災地アチェ州をどうか助けてください。

■結婚式~スマトラ島アチェ州
                            Angge&Masami  
             
 おおむねインドネシアの人はファミリという言葉で家族、親戚一族をあらわし、親密で大切にしています。そのファミリの感覚をとてもうらやましく思ったことがありました。
私はアチェ出身の主人と結婚して、アチェはもちろん、ジャワやスラウェシにもこのファミリができました=私がファミリの一員になったのですね。パパ(義父)の兄弟が多いことと、ママ(義母)がスラウェシ島メナド出身なのでインドネシア各地に親戚がいるのです。日本の親戚は近隣ばかりなので何だか壮大なスケールに感じてしまいます。
ところで冒頭のPeue haba?とはアチェの言葉です。インドネシア語で言うapa kabar?(ごきげんいかが?)ですので、ずいぶん言葉が違うことがわかるかと思います。アチェの実家ではインドネシア語が主流なので、私もなんとか会話をするのですが・・・果たしてはじめて会うファミリとは?アチェとは?どんな出会いとなるでしょう。

1999年1月に私は初めてアチェを訪れました。アチェはイスラム教の信仰心が篤い地域といわれ、また紛争地としても知られています。さらにこのとき丁度ラマダン(断食月)でもありました。そんなさなか、電話でしか話したことのなかった家族に、私はどのように迎え入れられるのか不安な一人旅でした。ガルーダを利用してバリ経由で行くことにしたので、バリで一泊、翌朝発でメダンへはジャカルタを経由しなければなりません。まあなんと遠いと思ったことでしょう。メダン上空に来ると景色は“スマトラ”に変わっていました。サゴ椰子の緑の中をゆったり蛇行する土色の河がある景色です。到着したメダンの空港では当然主人と弟たちが出迎えに来てくれていました。顔を見てやっとほっとできた瞬間でした。でもまだアチェへの道のりはこれからです。車に乗ってサゴ椰子のつづく一本道を北端に向かってひたすら走ること約6時間。この道は舗装もされていて、バスやあぶら椰子の実を高く積み上げたトラックなど、どの車も速度を上げて走っています。はじめての楽しみと期待が大きかったのか、私にはそれほど苦痛ではない6時間でした。既知のインドネシア(ジャワ・バリ)とは大きく違うインドネシア(スマトラ)の印象があったからかもしれません。

アチェ第二の都市ロクスマウェの実家に到着してみると、両親弟妹たちに暖かく迎えられ、美味しい食事を食べたり、町を見たりして、主人の生まれ育った故郷を知ることとなりました。そうして少しずつ不安は解消されていったのですが・・・。
なにしろ結婚式は私が到着した翌々日に予定されていました。

 
ラマダン中だったためプアサ(断食)を終えた日没後に私たちの結婚式は執り行われましたが、その日は朝から台所に限らず自宅のあちこちで料理がはじまり、応接間だった部屋はきらびやかなアチェ様式の装飾が施されて立派な式場となりました。私自身は改宗の儀式をしてムスリムとなり、髪を結ってもらい真新しいクバヤを着て神妙な面持ちだったはずです。クバヤは前日採寸したばかりなのにピッタリ仕上がっていたのには驚きました。式はイスラム式であって特にアチェ特有ということはないようですが、周囲に手ほどきされるままに挨拶、宣誓、書類にサインなど車座の人々が見守る中で婚姻の手続きは進行していきました。緊張していたのは私だけではなく主人も同じでした。新郎がその誓いの言葉を2度言い間違えると結婚式は取り止めになるらしく、1度言い間違えた主人はドキドキだったことでしょう。幸いにも2度目は無事に言えてさぞかしほっとしたことでしょう。


しかし新婦の私にも思わぬ事態が起きました。それは片言の日本語ができる先生の登場でした。言わなければならない言葉はしっかり覚えていたのに、その言葉を「日本語に訳してください」といわれた時には、頭が真っ白になってしまい全く言葉が出ませんでした。新郎と義父の助け船によってなんとか先生を納得させ進行していき、とにかく無事に終わりほっとした一夜でした。


その後一週間ほど滞在し、家族とも仲良く過ごし、帰国する日にはママがレバラン(断食明けの祭日)用にたくさん作ったお菓子をほかの土産物と一緒に持たせてくれました。一ヶ月後にまた披露宴をする約束でレバラン前に日本に帰国してしまいました。レバランをアチェで家族一緒に過ごせなかったことが心残りとなりました。

     
こんなレバランに対する思いもあり、今年のレバラン前夜はママや義妹と一緒にお菓子作りをしたことを思い出しながら、インドネシア菓子(クエラピス・クエナナス)を作ってみました。少しでもインドネシアのレバランの雰囲気を味わえたらと思ったのですが、かえってひとりで寂しさを感じてしまい、初めてひとりで作った達成感だけでした。アチェでは中庭に並んで座り、夜な夜なおしゃべりしながら出来上がりを楽しみに手を動かしていたのですから。
お互いに遠いファミリを想いつつ、今度の里帰りはレバランに帰れるといいなと主人も私も思っています。叶うといいのですが・・・。
日本でも年末年始、親戚ファミリと接する機会が多い時期となります。大切に過ごしたいと思います。(つづく)

結婚式の新郎新婦
結婚式の新郎新婦
玄関先にて両親弟妹と
玄関先にて両親弟妹と